カバー

残り香だけで満足していた。
その言葉を聞くまでは──。

白百合の香りを纏う明日葉に惹かれた匂いフェチのリーリャは、ある事情で退学間際だった彼女を救う。感謝から発せられた明日葉の「なんでもする」という言葉。それは抱き続けて焦がれすぎたリーリャの恋慕をこじらせ、愛欲へ変えさせる魔性の言葉であった――。

こじらせ性癖の完璧お嬢様と、元気が取り柄の活発少女。真逆なふたりが理解を深めて寄り添っていく関係性をお楽しみください!

  • 著者:ちょきんぎょ。
  • イラスト:つるこんにゃく
  • 本体価格:1,200円+税
  • ISBN:978-4-8155-6514-5
  • 発売日:2020/3/30

  • [店舗特典]
  • ●とらのあな様:SS付きポストカード
  • ●メロンブックス様:SS付きポストカード
  • ●書泉様:書泉百合部限定SSペーパー
  • ※とらのあな様・メロンブックス様の特典SSの内容はそれぞれ別種のものになります。
  • ※それぞれの特典は店舗様にて無くなり次第終了となります。
  • ※電子書籍版には上記全ての特典は含まれません。
口絵

タイトルをクリックで展開

 陽の光が差し込む、小さな教室。

 春の終わりの爽やかな陽光を反射して、きらきらと輝く金色の髪があった。

 金を敷き詰めたようなウェーブの髪の持ち主は、透き通るような美貌を持った美少女だった。

 細く、白い体躯は触れれば砕けてしまうような儚い麗しさをまとい、目鼻立ちは整っていて、深い海色の瞳が周囲の視線を引き込むように輝いている。その金色を彩るように添えられたカチューシャも印象的だ。

 お伽噺のお姫様のような、或いは人形のような、少女でありながら既に完成されているようにも見える美しさを惜しげもなく晒した彼女は、柔らかな笑みを崩すことなく、凜とした姿勢で窓際の席に腰掛けていた。

神城かみしろリーリャさん」

「はい」

 名前を呼ばれた少女──神城リーリャは、小鳥のさえずりのように可愛らしく、よく響く声で返事をして、優雅な動作で音ひとつ立てることなく席を立った。

 一歩、また一歩と、教師のいる壇上に近寄っていくその姿でさえ、誰もが惹きつけられてしまう。

「神城さん、今回のテストも全教科満点で、総合一位です。素晴らしいですわ」

「ありがとうございます、先生方がしっかりとした授業をしてくださるお陰です」

 完璧な少女は完璧な微笑みでテスト用紙を受け取り、くるりと踵を返す。

「凄いね、神城さん……」

「今回、凄く難しかったのに……」

「ああ見えて、運動もできるし……」

「見た目も中身も家柄も、完璧なお嬢様って感じだよね……」

 金色の少女は周囲からの視線と言葉に気付き、そして、

「……皆様、ありがとうございます♪」

 お礼の言葉と共に、にこりと微笑んだ。

 天使のような柔らかな笑みに、学友たちは一斉に机に突っ伏して、

「カワイイッ……!」

「尊いッ……!」

「嫉妬する気も起きないッ……!」

 あまりの眩しさに思わず声を漏らしていた。

 学友たちのその反応を見て、きょとん、と目を丸くするリーリャ。

 彼女の、空気すらも染め上げるほどの圧倒的な存在感に、教師はごほんと大きく咳払いすることで教室の雰囲気を真面目なものに戻す。

「それでは、学年二番は……百合園ゆりぞの 明日葉あすはさん!」

「はいっ!!」

 金色の人形少女とは対称的な、元気の良い声と、席を立つ音が響く。

 黒髪をポニーテールにさっぱりとまとめた少女は、同年代と比べると頭ひとつ抜けた、恵まれた身長を持っていた。学園指定の制服を着てもなお、すらりとした印象のある肉体美を持つ身体。

 瞳は見るものにまで活力を分け与えるよう、きらきらと輝く黒瑪瑙。肌は少し焼けているが、しなやかな体躯と合わさり健康的な魅力があった。

「さすが特待生!」

「すごーい、明日葉さん!」

「運動も勉強もできるなんて、カッコイイ……!」

「や、あはは、どーもどーも。みんなありがとー」

 リーリャのときとは違う、和気あいあいとした雰囲気が生まれ、明日葉自身もかけられる言葉に対して気軽な調子で返す。猫のように軽やかなステップを踏み、時には伸びてくる同級生たちの手にハイタッチで応じながら、彼女は教師の前に立った。

「惜しかったですね、明日葉さん。ですが、素晴らしい成績ですよ」

「いやいや、運動の方はボクに譲ってもらってるんで。次も頑張ります」

 教師の言葉にも恐縮することなく、爽やかに笑って明日葉はテスト用紙を受け取った。

「うわぁ、やっぱりここかぁ」

 間違えた部分をとんとんと指で押しながら、ポニーテールを揺らして明日葉は席に戻る。

「リーリャさん、凄いね、ボク全然分かんなかったよ」

「あ……ありがとうございます、百合園さん」

挿絵1

 ふたつ隣の、少し離れた席からでもしっかりと届く活力に溢れた声で、明日葉はリーリャに声をかける。リーリャは唐突に話しかけられて一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに微笑んで優雅にお辞儀した。

(うーん、やっぱりリーリャさんは凄いなぁ……)

 名門であり、明日葉の通う学園の出資者でもある神城グループの息女、神城リーリャ。成績は常に学年トップで、家柄をひけらかすでもない。ただ花のように佇み、柔らかな微笑みで周囲を惹きつける。

 誰が見ても完璧なお嬢様であるリーリャのことを、明日葉は尊敬の眼差しで見た。

(ボクも特待生って言われてるわけだし、みんなの模範として頑張らないといけないよね……)

 明日葉が通っている女学園は本来であればかなりの学費が要求される、いわゆるお嬢様学校と呼ばれる場所だ。

 彼女は優秀な成績と陸上競技での実績が認められたが故に学費を免除された特待生の身分であり、周りの生徒よりも遥かに小さな、ごく一般的な家庭の出だ。

 しかし、努力をまったく苦にしない不屈の精神で彼女は特待生の席を勝ち取り、持ち前の明るさで周囲にも好意的に受け取られている。

(……ああ、でも)

 底抜けの明るさを持つ彼女の顔が、ふいに曇った。

 自らが生み出した明るい雰囲気が遠くなり、明日葉は思考の海に沈むようにして、顔を俯かせる。

(そんなふうに頑張っても、もう……)

 ぐるぐると巡る昏い気持ちが、太陽のような少女の顔に深い影を落とす。

 瞳は机を映しても心までは届かず、耳が音を拾っても意識までは揺らさない。

 深く深く、悩み事という海に意識は沈み、そして──

「──さん? 百合園さん?」

「ひゃいっ!?」

 唐突に、視界いっぱいにやってきたものに、明日葉は飛び上がるほど驚いた。

「り、りりり、リーリャさん……!?」

 明日葉の顔を覗き込んでいるのは、金髪の美少女だった。

 形の良い眉を心配そうに歪めている相手は、あらゆるパーツが明日葉よりも小さく、可憐で、愛らしい。名前を呼ばれたリーリャは、透き通った蒼い瞳を安堵したように細めて、

「よかった、やっとお返事をしてくれました」

「っ……ご、ごめん、呼んでくれてたんだね」

 不意打ちで至近距離の笑顔を貰い、明日葉は心臓が跳ねるのを感じた。

(うわぁうわぁ、近くで見るとすっごい綺麗、可愛い、お人形みたい……!)

 徹頭徹尾完璧なお嬢様、神城リーリャ。

 努力と前向きさで上り詰めた特待生、百合園明日葉。

 学園の人気を二分する有名人であるふたりだが、彼女たちに明確な接点はない。

 顔を見れば挨拶はするし、テストを返却されたときのようにいくらか言葉を交わすことはあるものの、休み時間に談笑したり、休日を共に過ごしたりするような間柄ではない。

 そもそも明日葉は常に人に囲まれているが、リーリャはお嬢様ばかりのこの学園内においてさえ高嶺の花という立場で遠巻きに憧れの視線を送られているだけだ。仲が悪いわけではないが、学園における生活スタイルが真逆なのだ。

 明日葉にとって、神城リーリャという少女を至近距離で見るのはこれが初めてのことだった。

(だってこんなに顔小さいし、細いし、肌白いし、おめめキラキラだし……えええ、どうしようこれ、どうしたらいいのかな!?)

 すれ違うときでさえも感じていたリーリャの美しさを間近で見て、明日葉はやや混乱していた。

「あ、あの、えーと……ご、ごめん、なんの話だっけ! ていうか今、テスト返してる途中じゃなかったっけ!?」

「……テストの返却ならもう終わって、ホームルームも終わりましたよ?」

「へっ!?」

 言われて周囲を見渡してみると、既に教室内には生徒も教師もいなかった。

「皆さん、何度か百合園さんに話しかけていたのですが……」

「う、うわー、完全に上の空だった……」

「お疲れのようでしたから、そっとしておいてあげてくださいと、私からお願いしておいたのですが……もう日が傾いてきましたから、さすがにお声をかけたのです」

「ご、ごめんね、ありがとう」

 悩み事で沈んでいるうちに、随分と時間が過ぎていたらしい。明日葉は慌てて鞄を掴み、

「ぼ、ボク、寮に戻るね! リーリャさん、また明日!」

「あ……ま、待ってください、百合園さん!」

「え、あ……な、なに?」

 ばつが悪くなったのを誤魔化して帰ろうとしたところを呼び止められて、明日葉は足を止める。

 自分の態度が良くないことは理解していたが、控えめな性格のリーリャは引き留めたりしないだろうと思っていた明日葉にとって、これは意外な展開だった。

(いや、そもそも今までリーリャさんがボクに話しかけてきてくれたことって挨拶とか目が合ったときくらいしかないよね、どうして急に……?)

 疑問に思っていると、金髪の少女は少しだけ言葉を探すように目を伏せて、

「その……私の家に、来てくださいませんか?」

「……へ?」

「……少しの時間で構いません。私のお屋敷に、来て欲しいのです。その……お、お願い、できませんか?」

 唐突な誘いに、明日葉の疑問は困惑に変わる。

 リーリャのことを嫌っているわけではなく、むしろ尊敬しているし、女らしくない自分から見て理想の美少女すぎて眩しいとすら感じる。

 それでも、自分たちは放課後に家で仲良くおしゃべりに興じるような関係ではなかったはずだ。

「……いい、けど」

 困惑しながらも、明日葉は断れなかった。

 面倒見の良い彼女にとって、困り顔での『お願い』というのは、ひどく断りづらいシチュエーションだった。なにより、いつも教室の隅で花が咲くような微笑みを崩さないリーリャが困ったような顔をするなど見たことがない。

 なにか深い理由がある、そう察するには充分すぎるほどの状況に、明日葉は一瞬、自らの悩みを忘れてしまったのだ。

「よかった……それでは、早速参りましょう。表に車を待たせてありますから」

「あ……う、うん」

 なぜ、と理由を聞けないままで、明日葉はリーリャの家に招待されることになった。

 夕日に照らされた、ほっとした顔をする金の少女の表情はひどく新鮮で、黒髪の少女はまた、自らの心臓が早鐘を打つのを感じた。

「……ふ、わぁ」

 煌びやかなシャンデリアが吊り下げられた高い天井を見上げ、明日葉は感嘆の声をこぼす。

「どうか楽にしてくださいね、百合園さん」

「う、うんっ」

 どうにかこうにかという感じで、かくかくと首を縦に振る明日葉だったが、もちろん『楽に』などできるわけがない。

 この部屋に置かれている調度品のひとつひとつ、座っているカーペット一枚でさえも、恐らく自分のお小遣いを何年とやり繰りしても手が届かないだろう。

 それほどまでに今、彼女がいる空間は豪奢で、お伽噺のお姫様が住まう城の中のように格式の高い空間だった。

(すっごい豪華。それに……)

 ちらり、と視線を送る相手がまた、この空間に違和感なく完璧に収まってしまっている。

 同年代と比べると背の高い自分と比べて頭ひとつ以上に小さな、人形のような麗しさを持った少女。

 自分と同じ学園の制服を、とても同じ服とは思えないほどに優雅に着こなしている少女の髪は、金色を敷き詰めたようなウェーブ。

 吸い込まれそうになる深い蒼色の瞳はひどく幻想的で、目が離せなくなるような儚さをまとっている。

 にこやかに微笑む動作すらも、まるで完成されたひとつの演目のような美しさだ。

 誰が見ても完璧なお嬢様、神城リーリャ。そんな相手とふたりっきりという状況に、明日葉は自らの存在をひどく場違いに感じていた。

(だってだって、ボクはガサツだし、どっちかっていうとアウトドア派だし、お洒落なんて全然できないし、そもそも女のくせに大きくてかわいくないし、こんな、お嬢様って感じの部屋でのんびりなんてっ……)

 出されているお茶に口をつけることすらも恐れ多い。もしもカップを割ってしまったらどうしよう。

 完全に萎縮してしまっているクラスメイトを見て、人形のように麗しい少女は困ったように眉尻を下げる。

「すみません、その……自分の部屋に人を招くのは初めてなのです。なにか失礼があったのでしたら……」

「ち、違うよ! リーリャさんのせいじゃないよっ!」

 困った顔すらも絵になってしまうほどに麗しい目の前の少女に、明日葉は慌てて首を振った。

「そうじゃなくて、その……なんか恥ずかしいなって。ボクはリーリャさんと違っておうちが大きいわけじゃない、ただの特待生だから、こういう豪華な家に慣れてなくって……」

 同じ学園に通っているふたりだったが、立場は大きく異なっていた。

 ふたりが所属する女学園は、古い歴史と、高い知名度があり、入学するためにそれなりの『格』というものを要求される。

 金髪の少女、リーリャは、由緒正しい家柄を背景に持つ生粋のお嬢様で、彼女の父は学園の出資者のひとりでもある。入学は自然な流れと言えるだろう。

 対して黒髪の少女、明日葉は、本来であればリーリャと同じ学園に通うことは許されない、ごく平凡な家の生まれだ。

 そんな立場の差からくる明日葉の羞恥心を、リーリャは花開くように微笑んで否定した。

「百合園さんは部活動と学力、双方の実績を認められての入学です。恥じ入ることなど、なにひとつないと思います」

「うぅ、そうかもしれないけど……というか、どうして突然、ボクを家に呼んでくれたの……?」

 彼女の困惑の理由は、なにも家柄の違いを見せつけられたというだけではない。

 常に明るく、運動部の仲間たちに囲まれて、眩しい笑顔を振りまく特待生の明日葉。

 常に静かで、優雅に微笑み、遠巻きに憧れの視線で囲まれているお嬢様のリーリャ。

 ふたりはどちらも人目を引く存在だが、学園における生活スタイルは大きく異なっている。少なくとも、放課後を共に過ごすような仲睦まじい関係ではない。

(そりゃ少しくらいなら話すし、綺麗で凄い子だって思ってたけど……突然、家に呼ばれるなんて……)

 誘われた理由も分からず、ただ流されるがままに明日葉はお屋敷に招待された。

(なにより今は……お茶を楽しむなんて……とても……)

 それでも、平素の彼女であれば、戸惑いつつもこの状況を受け入れることはできただろう。

 学園の他の生徒に比べれば平凡な出自でありながら、努力で特待生という身分を勝ち取り、持ち前の明るさと人付き合いの良さで人気を培った『いつも』の明日葉ならばだ。

 しかし今、彼女はそこまでの余裕を持つことができない状態にあった。それでも彼女は相手を傷つけないように、なるべく言葉を選んで口を開く。

「その……リーリャさん。用事があるなら、できれば手短にして欲しいんだけど……えっと、ボク、ちょっと用事が……りょ、寮の門限もあるし……」

「……百合園さんの心配事は、おうちのことですね?」

「っ……!?」

「お父様の事業の失敗……とても残念に思います。そして、百合園さんの特待生の取り消しも」

「な、なんで、それを……!?」

「……私のお父様は、学園の出資者ですから」

 平凡な家に生まれた優秀な子供。その親として、少しでも恥ずかしくないようにと、明日葉の父親は事業を起こした。

 しかし残念ながら彼女の父に商才はなく、結果として大きな借金を抱えてしまった。

 そうなってしまっては、いかに優秀な生徒とはいえ、学園側は庇い立てをしない。脛に傷を持つような親の子を置いていては学園そのものの評判も下がり、伝統に傷がついてしまうからだ。

「……すみません。知られたくないと、そう思われているのは分かっていたのですが……その、偶然、お父様から聞いてしまって」

「……ううん。気にしないで。その……ほんとの、ことだから……」

 今更取り繕ったところで、事実が消えることはない。

 そしてどれだけ優秀であったところで、明日葉はまだ子供だ。

 親の失敗や、学園の決定を覆すことなどできるはずもない。

 それでも、家族思いの少女はずっと悩み続けていた。どうすればいいのか、自分になにができるのか。

 無論、考え尽くしても良い方法など浮かぶはずもなく、学園から除籍されるのを待つばかりの身だったのだが。

「……でも、だったら尚更、どうしてリーリャさんはボクを家に……?」

 今の自分は特待生としての立場を失うことが確定しており、近いうちに除籍される運命にある。

 そんな相手と今更になって接点を持つことに、なんの意味があるのだろうか。

 疑問を投げかけた明日葉に対して、リーリャは言葉を探すかのように少しだけ考える仕草をして、

「それはその……安心させてあげたくて」

「あん、しん……えっと……?」

 言われた言葉の意味が分からない。

 疑問符をいくつも頭に浮かべて首を傾げる明日葉に、リーリャは柔らかく微笑みかける。

「百合園さんのおうちの借金はすべて我が家が肩代わりして、完済致しました」

「へっ!?」

「そして百合園さんのお父様には、再就職先として我が家の……神城グループ傘下の企業への打診を、既に送っています」

「え、えっ……?」

「……混乱している百合園さんにも分かりやすく説明しますと、もうあなたのお父様の借金も、特待生の取り消しも、これからの生活の心配も……すべて、なくなったということです。私がお父様に頼んで、そうしてもらいましたから」

「……ど、どう、して……?」

「……嬉しく、ありませんでした?」

「そ、そんなことないよ! 学園にいられるし、お父さんのことも、凄く嬉しい、けど、でも……り、理由が、分からなくて……!」

 突然不幸が降ってきたかと思えば、今まで接点のなかった相手によってその不幸が取り払われた。

 今の明日葉にとっては嬉しさよりも、困惑の方がずっと大きいというのが素直な感想だった。

「リーリャさんは、どうしてそんなことを……お父さんに頼んでまで……」

「……私は、百合園さんに憧れていたんです」

「あこがれ、って……そんな、ボクなんて、平凡な生まれだし……リーリャさんみたいにお上品じゃないし、かわいくないし……憧れてもらうようなことは、なにも……」

「本当のことです。明るくて、みんなに囲まれて……親の後ろ盾がなくとも、自分の努力で輝ける。百合園さんは私にないものをたくさん持っている素敵な人です」

「っ、あ、あり、がと……」

 リーリャは小さな体躯と人形少女めいた麗しさでありながら、まるですべてを赦す聖母のような優しい微笑みで、見ているだけで引き込まれそうになってしまう。

 そんな彼女に柔らかな声音で真っ正面から褒められて、明日葉の鼓動は跳ね、体温がぐんと上昇する。

「……で、でも。そんな、貰いっぱなしは……その、ダメだと思う」

 目の前の裕福なクラスメイトの優しさにすべて甘えてしまいたい。このままなにもなかったかのように、学園に通い続けたい。

 そんな気持ちを迷いなく肯定できるほど、百合園明日葉という少女は自らに甘い人間ではなかった。

「私が勝手にお父様にお願いしたことですから、百合園さんが気に病む必要は……」

「気にしないなんてできないよ。払ってもらったお金を、全部返すのは難しいかもしれない。でも……そんな大きなことをしてもらって、ありがとうって言葉だけなんて……それは、ボクの気持ちが収まらないっ……!」

「……百合園さん」

 明日葉の真剣な瞳に、リーリャは目を丸くする。

 しかし、驚きによって表情が変わったのは、ほんの一瞬。金髪の少女の顔はすぐに微笑みに戻り、

「ふふ、責任感の強い百合園さんらしいですね。でしたら、私も断る理由はありません。でも……具体的には、どうやって恩返しをしてくれるのでしょうか?」

「う、え。それは、ええとっ……」

 未だに混乱が残っている頭で、明日葉は必死に自分にできることを探す。

(ボクにできて、この子が嬉しいと思ってくれるもの……そんなもの、あるの……?)

 自分より遙かにお金持ちで、何不自由なく暮らしているように見える彼女に、なにをしてあげられるかなど、簡単に思いつくようなことではなかった。まして、貰った恩が大きすぎるのであればなおのことだ。

「……わ、わかんない! わかんないけど、なんでもするっ!」

「なん、でも……」

「その、ごめんね。なにをすればいいのかとか、リーリャさんがどんなことされたら嬉しいのかとか、ボク、全然分からないから……だから、望んでくれれば、なんでもする。それが、ボクにできることならっ……!」

 精一杯考えて、なんとか絞り出した言葉。

 その言葉は正解ではないかもしれないが、それでも与えられた恩に対してなにかを返したいという気持ちの表明だった。

 答えというよりは決意のような、なんでもするという明日葉の言葉を、リーリャは口の中で転がすように呟いて、目を伏せた。

「その、ダメ……かな、リーリャさん」

「……本当になんでも、してくれるんですか?」

「っ……!?」

 これまでずっと、柔らかく微笑んでいた蒼色の瞳に、優しさ以外のなにかが灯るのを明日葉は見た。

(きれい、だ……)

 麗しく微笑んでいるときよりもずっとずっと不安定な、揺らめく炎のような蒼の輝きに、明日葉はひどく心を奪われ、目が離せなくなる。

「……うん。ボク、なんでもする、よ……?」

 心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じながらなんとか声を絞り出すと、リーリャは揺れる瞳のままで、明日葉の顔を覗き込むようにして身を寄せてきた。

「り、リーリャさん……?」

 視界いっぱいに相手の顔が来て、心音が更に速まる。

 普段の彼女のように精巧な人形じみた完璧さのない、歪んだ眉や震える唇、揺れ動く蒼い目。それらすべての情報が、明日葉の身体をふわふわのカーペットに縫い付ける。

 後退ることも、目を逸らすこともできない。魅入られたように動けなくなった明日葉に、リーリャが触れる。

「っ、ぁ……」

 小さく漏れた明日葉の声に、リーリャはびくりと身をすくめ、手を引いた。

 しかし、それはほんの一瞬のこと。おずおずと、しかし再び、たおやかな白い指が、明日葉の制服のリボンタイをなぞる。

 リーリャは明日葉に触れながら、なにかを確かめるように少しずつ相手へと距離を縮め、そして──

「んっ……」

 明日葉の胸元へ、自分の鼻先を押しつけた。

「ふやぁ!? ちょ、リーリャさん!?」

「ん……な、なんでもしてくれるというのでしたら、その、もう少し、そのままで……」

「っ……あ、う……うん……」

「ん、すんすんっ……」

 明らかに、リーリャは明日葉の匂いを嗅いでいた。

 それもお互いの距離を完全になくした、お互いの体温を感じられる体勢で。

 恥ずかしさで顔から火が出そうな心地になりながらも、なんでもすると口にした手前、明日葉は動くことができなくなってしまう。

「り、リーリャさんっ……い、いいい今、ボク汗かいてる、からっ……」

「大丈夫です、いいえ、むしろその方が良いですからっ……!」

「良いってなにがぁ!?」

 妙に力強い否定とともに、リーリャは深く、鼻で呼吸する。

 吐息の温度が制服を通してくすぐったさとして伝わり、明日葉はぶるっ、と震えた。

(なに!? なんなの!? おじょーさまの間だとこういう挨拶とかしきたりがあるの!?)

 リーリャはたっぷり数分は明日葉の胸に顔を埋め、丹念に明日葉の匂いを吸引し、

「~っ……ぷはっ……け、結構苦しいもの、ですね……」

「っ、り、リーリャさん、なんでっ……」

「百合園さん。……これから、よろしくお願いしますね」

「え、あ、え……は、はい……」

 訳も分からないままにとびきりの笑顔を見せられて、明日葉はなにも言えなくなってしまう。

 こうして、お嬢様と特待生。

 ふたりの少女の、秘密の約束が結ばれた。

「は、はええ……すっごい部屋だ……」

「すみません、少し手狭で」

「いやいやいや! 一番狭い部屋でいいって言ったのボクだから! むしろこれでも広すぎだからね!? なにこれ、室内で軽い運動くらい全然できるよ!?」

「……これでも使用人の中で、一番新人のものが使う小さな部屋なのですが……」

「価値観の違いが凄い……!!」

「……? あ、寮の荷物は明日にでもまとめておいていただければ、使用人がこちらまで運びますので」

「えぇぇ……」

 なんでもする、そう言った明日葉に対してリーリャが新たに求めたことは、『自分と同じ屋敷で暮らす』ことだった。

 クラスメイトの屋敷に招かれ、匂いを嗅がれ、その日には一緒に暮らす運びになった。

 昨日までの自分の価値観が根こそぎ変わってしまうような急展開に、明日葉は軽くめまいを覚える。

(分からない、この子のことが……)

 百合園明日葉にとって、神城リーリャは遠い存在だった。

 自分のようにガサツで、平凡な生まれの人間とは違う、将来を約束された人種。

 相手の生い立ちに対して嫉妬はない。明日葉はむしろ、親の偉大さを背負うという重圧を優雅に笑って受け止めているリーリャのことを尊敬すらしていた。

 自分でさえ、特待生という生徒たちの模範となるべき身分で、学園という存在をプレッシャーに感じることは少なくない。

 目の前の金髪の少女は手折れば砕けてしまいそうなほどの儚げな美貌を持ちながら、自分が今まで感じてきた以上の重荷を、生まれ落ちた瞬間から背負ってきた。

 深い接点がなくても、明日葉にとっては充分に凄いと思えるクラスメイト。

 それが百合園明日葉にとっての神城リーリャだった。

「その、リーリャさん。さっき憧れてるって言ってくれたけど……ボク、そんな人間じゃないよ?」

「……どうしてですか?」

「そ、れは、だって……さっきも言ったけど……ボクはおうち、大きくないし……性格は大雑把だし、見た目もその、女子の中だと大きくて、可愛くないし……リーリャさんみたいに、そんな、お姫様みたいな人から憧れられるような人じゃないよ」

「……では、私もさっきも言ったことをもう一度言いますね。……百合園さん、あなたはいつだって明るい笑顔で周囲を照らして、私のように親の偉大さがなくてもご自分の努力で道を切り開いて、輝ける……尊敬に値する人です」

「っ……あ、ありがと……」

「それと、これは先ほど言いませんでしたが……あまりにも目に余るので言っておきますね。……百合園さんは可愛いです」

「ふ、へ!?」

 褒められることは、明日葉にとって何度もあったことだ。

 成績優秀、スポーツ万能。幼少の頃から非凡な才能を発揮し、たゆまぬ努力を重ねた明日葉にとって、賛辞の言葉は日常茶飯事だった。

 しかしその言葉はいつも『よくできた』とか『格好いい』という言葉ばかりで、『可愛い』と言われたことは、ほとんどなかったのだ。

「そそそそっ、そんなことないよ!!」

「いいえ、可愛いですっ!!」

「ふぇぇ!?」

 慣れない言葉をぶつけられて、明日葉は慌てて否定する。しかしその返答に対してリーリャはきっぱりと否定を重ねた上に、普段誰にも聞かせたことがない早口で、

「クラスの皆様も先生方も百合園さんのことを格好いい、綺麗だとおっしゃいますが、私から言わせていただけるなら百合園さんは格好いいし綺麗なのはもちろんですが、それに加えて可愛いです!」

「へ、あ、へ!?」

「密かに文房具を猫モチーフで揃えていたりするではないですか! ヘアゴムも毎日動物系の可愛いものを着けていますし、そのセンスがもう可愛い! あとこの間、学園に野良猫が紛れ込んだときに顔が緩んでいました! 普段は凜としていますけどそうやってたまに凄く可愛い顔見せて! 落差が凄い! 好き!!」

「え、あ、あの、り、リーリャさん……?」

「百合園さん、お弁当も自分で作っていらっしゃるようですけど、飾り切りがいつもお上手ですし、メニューも凝っていながら見た目もちゃんと気を遣うところが凄く可愛いんですよ! あと風呂敷も猫柄で! 猫好きなんですね!?」

「ね、猫ちゃんは凄く好きだけども!?」

「猫ちゃん! 言い方がもう可愛い!!」

「は、はうぅ!?」

「はっ……」

 なにかのスイッチが入ったようにマシンガントークをぶちかましていたリーリャの動きが、唐突に止まった。

 金髪の少女は深く息を吸い、呼吸を整えてから改めて明日葉を見上げて、

「……とにかく、百合園さんは可愛いんです。私がそう見ているんです。分かりましたね?」

「あ、は、はい……」

 有無を言わせない口調で言い切られ、明日葉は素直に頷くしかなくなる。

(リーリャさん……いつも凄く落ち着いて、ニコニコしてたけど……こんな顔もできるんだ……)

 今まで知らなかった、およそお嬢様らしくないとさえ思える激しさ。

 明日葉は放課後の教室から、リーリャの知らない顔をいくつも見ることになっている。

(でも……なんだろう、今までずっと遠い人だと思ってたのに……)

 自分のことをそんなにも見てくれていたということに、素直に嬉しさを感じる。人形みたいで綺麗だと思っていた相手が、明確な感情の揺れや激しさを見せてくれて、ひどく近い存在になったように思える。

 戸惑うことは多く、なぜという気持ちも大きい。それでも、今の対応で、少なくとも彼女がこちらを想ってくれていることくらいは明日葉にも理解できた。

(なんで嗅がれたのかとか、分かんないことはあるけど……悪い子じゃないし、ボクのことを本当に心配して助けてくれたんだ……うん、それなら……)

 認めた相手に対して、明日葉は自然と手を伸ばした。

「え、きゃっ……」

 唐突に手を握られて驚いた顔のリーリャに、明日葉は微笑みかける。

「……リーリャさん。ありがとう。お世話になりっぱなしになっちゃうけど……その、これからよろしくね」

「…………」

「……リーリャさん?」

「ふ、ふぁい! こちらこそよろしくおねがいします!? も、もう少し握っててもらっていいですか!?」

「あはは……それくらいのお願いなら、いくらでも」

 未だに状況は飲み込めないけれど、少なくとも目の前の相手が自分にとって悪い感情を持っていないことは分かる。

 今はそれで充分だと、明日葉は心の中で頷いた。

 神城リーリャはお嬢様だ。

 事業家の父、大女優の母の間に生まれ、父の比類無き頭脳と、母の類い希なる美貌を、神に愛されて受け継いだ。十人が見れば十人が完璧だと評価する、完全無欠のお嬢様。

 ありとあらゆる幸福を約束されて産まれた彼女は、その出自を受け入れ、周囲の期待に応えてきた。

 麗しく振る舞い、あらゆることを完璧にこなせと、そう望まれて、実際にそうしてきた。

 リーリャは当然のように親の決めた通り、歴史があり、知名度もある、箱庭のような女学園へと進学した。

 しかし、そんな恵まれた彼女にとって、百合園明日葉という少女は遠い存在だった。

 彼女の出自は平凡で、しかしその学力と陸上競技の成績を評価されて入学を許された、いわゆる特待生だ。

 活発な明日葉は、平凡な生まれを卑屈に感じることなく、常に笑顔だった。そしてそんな彼女の魅力は自然と人を引き寄せ、明日葉は眩しく輝いていた。

 リーリャの周りにも人はいるが、どちらかというと表面的な、社交辞令じみた会話だけの関係が多い。

 自分とはまったく違う相手であり、すれ違ったら挨拶をする程度の関係。

 しかし、リーリャは明日葉に、特別な気持ちを抱いていた。

 それは、明日葉の香り。挨拶をしてすれ違うときに、ほのかに嗅覚に触れて残されていく甘さ。

「百合園さん、ごきげんよう」

「うん、リーリャさん、また明日ね!」

 そんな挨拶を交わしたときに、太陽のような笑顔の彼女から香る、甘い、甘い、白百合の花のような匂い。

 その魅力に焦がれつつも、彼女は明日葉に必要以上に近づくことはしなかった。

 同じ教室にいても立ち位置の違う、遠い場所で咲く花の香りを、時たま感じられる。それだけで満足だと思っていたからだ。

 野に力強く美しく咲いた白百合のような同級生を、リーリャは密かに素晴らしい人だと思っていた。

「……借金、ですか?」

 そんな小さくて淡い、花の香りのような関係性が揺らいだのは、本当に偶然で突然のこと。

 明日葉の父親が事業でしくじり、多額の負債を抱えた。そしてその件で、彼女は学園をいずれ除籍される。

 父親のそんな話を少女は呆然と聞き、そして──

「お父様、どうか、お願いがあります」

 あらゆる手を尽くすと、決めた。

 父親譲りの行動力と、母親譲りの判断力。

 神城リーリャは父親を説き伏せ、百合園明日葉を救おうと決めてしまった。

「百合園さんの成績は学園全体で見ても上位で、定期テストではいつも私のすぐ下にいらっしゃいます。それに陸上競技ではいくつもの大会で優勝をし、表彰されています」

 それは言ってみれば子供が父親に我が儘を聞いてもらおうという、一般家庭ではごくありふれた図式。

 しかし、リーリャの父親は娘に対して甘いだけの人物ではなかった。まして子供にはとても解決できないような額の金銭が絡んだことであれば、そうあっさりと首を縦には振ってくれない。

「特待生の名に恥じない成績、さらに学園生活においても同級生のみならず、上級生や下級生にまで百合園さんは慕われています。面倒見がよく、目上の人を立てることも、目下に気を配ることもできる生徒です。教師の皆様方からも、非常に高い評価を得ています」

 父親から受け継いだ頭脳を懸命に回し、リーリャは百合園明日葉という存在の『有用性』を父親に説く。

「これまでも、これからも学園に多くの益をもたらしてくれるはずです。ここまで優秀な生徒は、学園の歴史を遡ってもそうは見つけられないと、私は思います。彼女自身ではどうにもならないことで道を閉ざされてしまうのは、あまりにも酷ではないかと……それに……」

 実利だけでは父を確実に動かすには不足だと判断したリーリャは、宝石のような深い蒼の瞳から透明な雫をこぼし、すがりついた。

「明日葉さんは、大切なお友達なのです……お父様、お願いします……!」

 母親から受け継いだ演技力で、リーリャは親の庇護下にあるという立場を存分に利用した。

 結果として父は娘の願いを聞き入れ、優秀な生徒を取りこぼすことを防いだ。

(私はそのことに対して、お返しが欲しいなどとは思ってはいません)

 敬愛する父に、仲良しであるなどという嘘までついて我が儘を言い、明日葉を救った。

 しかし、それは憧れの彼女に頼まれたわけではなく、自分が勝手にやったこと。そもそも学園生活で明日葉が落ち込んだ素振りを見せなかった以上、知られるのを嫌がっていることは想像に難くない。

 余計なことをしたと、そう言われることすら承知で、リーリャは自らの立場を行使した。

(思ってなどいなかった、はずなのにっ……!)

 なんでもする。

 その言葉で、『貸しにしない』という気持ちがあっさりと吹き飛んでしまった。

「うぅぅぅ……」

 ごろごろごろ。

 天蓋付きの高級ベッドの上を、西洋人形じみた少女が顔を真っ赤にして転げ回る。

 その表情の中に、普段の学園生活で周囲に見せる優雅さや落ち着きは欠片もない。

 年相応に悩み、行き場のない気持ちに翻弄される、ひとりの少女。

 完全無欠のお嬢様ではない、ただの神城リーリャが、そこにいた。

「ああ、なんてはしたないのでしょうっ……百合園さんのことを、あんなにいっぱい嗅いでしまって、勢いのままに一緒に暮らして欲しいなんて、言ってしまってっ……!」

 先ほどまでのことを思い出すだけで、リーリャの雪のように白い肌が鮮やかな朱色に染まる。

 自制の利かない己のことを恥じ入りながらも、少女の胸は高鳴りを止めない。

 どくどくという心音は、リーリャ自身も今まで感じたことがないほどの大きさで寝所に響き渡り、それがどうしようもなく自分が喜んでいる証拠だと理解してしまう。

「っ、ああ……」

 リーリャは自らがこぼす吐息の温度から逃れるように身をよじり、シーツに身をくるむ。

「……甘えすぎてはいけないって、分かっているのに……」

 神城リーリャは、幼少の頃から己を厳しく律してきた。

 自分がどのような家に生まれ、どのように振る舞わなければいけないか。

 神城という家に生まれた自分が得ることができる利益も、飲み込むべき不利益もすべて理解して、彼女は周囲が望むように生きてきた。

 自らの意志で、そうして生きると決めた。それでも神城リーリャにとって、百合園明日葉は眩しい。

 自分の努力と人柄で、今の立ち位置を築き上げた明日葉のことを尊敬している。なによりもそんな彼女から香る、甘い匂いに、焦がれている。

「……百合園、さん……」

 胸の奥に宿り、消えない熱に目を細め、金髪の少女はゆっくりと意識を薄れさせていく。

 誰の目も立場も気にすることのない眠りという海に、沈んでいく。

 やがて規則正しい寝息が刻まれ始め、寝室に静寂が訪れた。

 百合園明日葉にとって、その日は慌ただしい一日になった。

 いろいろなことがありすぎて疲れ切っていた明日葉は、部屋でひとりにされるなりベッドに倒れ込んで、泥のように眠った。

 お屋敷のベッドは今まで眠った中で一番ふかふかで、お陰で明日葉はお昼前まで惰眠を貪ってしまった。

(休日で良かったよ、ほんとに……)

 平日ならとっくに遅刻しているところだ。その場合は恐らく、使用人の誰かが起こしに来たのだろうが。

 目を覚ました明日葉は父親に連絡して、同級生に助けてもらったという旨を話した。父親は電話口で何度も明日葉に謝り、神城グループ傘下の会社で働き始めることになったと報告してくれた。

 そうして安堵したところで部屋にやたらと豪華な昼食が運ばれてきて、明日葉は使用人たちにペコペコと頭を下げて食事をいただいた。

「あ、あの、リーリャさんは、今日は……?」

「お嬢様は習い事や、旦那様や奥様のお知り合いとの会合などで忙しいので、お戻りは夜になるかと」

「それは……大変なんですね」

「いえ、お嬢様は立派にお務めを果たされていますよ」

 仕えられて幸せだ、という顔をする給仕に、明日葉は疑問を覚えた。

(同級生だけど、まだ子供のリーリャさんがそこまでしてるなんて……)

 彼女は学園の中だけでなく、家の中でも完璧なお嬢様として、周囲の期待を一身に受けているようだ。

 安心したような使用人たちの表情は、自分たちの『お嬢様』を少しも疑ってはいないもので、

(……周りの大人の人たちまで、しっかり頼むよって、そう言い続けてきたのだとしたら……リーリャさんの甘えや疲れはどこに行くんだろう)

 疑問に思いながらも遅めの食事を綺麗に片付けて、明日葉は引っ越し準備の掃除のために寮へと戻ることにした。

 リーリャの屋敷は学園とそう離れておらず、歩いても十分ほどの距離だ。

 お抱えの運転手だという使用人が送ろうとするのを、運動ついでだと言って断り、明日葉は昨日からの怒濤の展開を頭の中で整理しながら、やや遠回りで寮に戻る。昔から身体を動かしていた明日葉にとって、悩み事ができたときに近所を走り込むのは癖のようなものだった。

 さすがに情報量が多すぎるために学園に着くまでに明確な答えを見つけることはできなかったものの、多少は落ち着きを取り戻すことはできた。

「お風呂入ってないし、スカートで掃除はしづらいから服くらいは着替えたいな」

 明日葉の私服はカジュアルで制服よりも動きやすいものが多い。

 今日は掃除ということもあり、デニムパンツと、黒を基調としたシャツでシンプルにまとめた。動きやすさ重視で飾り気は少ないものの、すらりとしてスタイルのいい明日葉が着るとどこか決まっている印象だ。

 荷物をまとめ、部屋を片付けた明日葉は寮母や寮生たちに簡単な挨拶をして回り、暗くなる前にリーリャの屋敷へと戻った。

「ただいま……で、いいのかな、これ」

 まだ慣れていない高級な屋敷に恐縮しつつ、明日葉は自室として与えられた部屋に戻る。寮で挨拶回りをしているうちに荷物は運ばれていたらしく、部屋の隅にいくらかの段ボール箱が積み上がっていた。

「荷物を出すのは……さすがに明日でいいかなぁ、明日も日曜でお休みだし……」

 昨日からのイベント続きと、荷造りや挨拶の疲れを感じて、明日葉は結んでいたポニーテールをほどき、ベッドに身を投げ出す。

 夕食に呼ばれるまで、少し眠ってしまおうか。ふかふかのベッドに身を沈めることでやってきた誘惑に身を任せようとして──

「──すぅ」

「……すぅ?」

 自分以外の寝息があることに、気が付いた。

 落ちかけた瞼を開いて視線を動かすと、すぐ側に美少女がいた。

「っ……!!」

 驚いて出てしまいそうになった悲鳴を、明日葉は慌てて飲み込む。

 すうすうと規則正しく寝息を刻むのは、金色のクラスメイト。

(リーリャさん!? 夜まで帰らないんじゃ……!?)

 だいぶ日は落ちているが、時刻としては夕方だ。使用人から聞いていた帰宅の予定とはズレている。

 おまけに、なぜ自分の部屋にいるのだろうか。疑問に思ったものの、それ以上に、唐突に視界に現われたリーリャの寝顔に、明日葉は完全に魅入ってしまう。

(うっわ、寝てたら本当にお人形に見える……!)

 金色の髪を白いシーツに敷き詰めるようにして、リーリャは横たわっている。

 至近距離で見る相手の顔は、同性だというのに胸が高鳴るほどの美しさだった。

 瞳を閉じていても長いと充分に分かる睫毛に、形のいい眉。

 小さな唇はつやつやと柔らかそうで、肌はシミひとつ見当たらないほどの純白。

 普段着らしいフリルたっぷりの洋服は、彼女の可愛らしさを存分に引き立てていた。

(不思議の国のアリスみたいだなぁ……)

 百合園明日葉は、可愛いものが好きである。

 幼い頃から背が高く、面倒見の良かった彼女は、可愛いと評価されるよりも格好いいと評価されることが多かった。

 そうして、いつしか彼女は可愛いものに対する憧れを強く持つようになっていた。小物を動物系、特に猫のもので揃えていたりするのは、せめて持ち物くらいは可愛くしたいという彼女なりの乙女心だ。

 そんな明日葉にとって神城リーリャという人物は、憧れの容姿をしている。

 お伽噺のヒロインのように煌びやかな金色の髪、あらゆるパーツが小さな体躯。

 白磁色のなめらかな肌や蒼色の瞳は、見ているだけで吸い込まれそうなほどの美しさだ。

「……少し、だけ」

 そっと頬に触れてみれば、指が滑るほどに肌のきめは細かく、降ったばかりの雪に足跡をつけるような背徳感すら湧いてきてしまう。

(見た目だけじゃなく質感までお姫様だ……凄い……)

 相手が眠っているのをいいことに、明日葉は自分の理想の可愛らしさを備えたクラスメイトの少女の肌をなぞり、鼻の先から睫毛の一本までじっくりと観察する。

 普段は教室で笑みを絶やすことなく佇んでいるリーリャの寝顔は新鮮で、

「なんか、ど、どきどきする……リーリャさん、ほんとカワイイ……うう、天使かな……?」

「ん、んん……ゆりぞの、さん……?」

「ひえっ……!?」

 閉じられていた蒼の瞳が、ゆらりと花咲くように開かれる。

 リーリャはぼんやりとした表情で、至近距離まで迫っていた明日葉の顔を眺め──

「ひゃぁぁっ!?」

 顔を真っ赤にして、飛び上がった。

「も、ももも、申し訳ありません! わ、私、百合園さんのベッドでなんてはしたない……!」

「そそそ、そんなこっちこそごめんね! 気持ち良さそうに眠ってるからつい、じっと見ちゃって……!」

 ふたりはお互いにベッドに正座し、ぺこぺこと頭を下げて相手に謝罪する。

 一通りベッドシーツに額を埋めた明日葉とリーリャの間に、沈黙という名の気まずい空気が流れた。

「……あ、あの」

 静寂を破ったのは、明日葉の方からだった。

「ええと、リーリャさん、今日は夜まで帰らないって聞いてたんだけど……」

「きょ、今日はたまたま、お稽古事が早く終わりましたから……」

「へ、へええ、そうなんだ! やっぱり凄いね、毎日頑張ってるんだ!?」

「い、いえ、私は神城の娘として、当然のことをしてるだけで……!」

 お互いに完全に緊張してしまっている状況に、明日葉はまずいものを感じた。

(……これはたぶん、良くない流れだ)

 これまで挨拶を交わすだけの間柄だったふたりが、急に接近した。お互いに知らないことだらけなのは当たり前で、だとしたらお互いのことはこれから知っていくべきことのはずだ。

 しかし今、自分たちは相手に遠慮して、ただ当たり障りのない対応をしてしまっている。

 たとえ同じ場所にいても、相手のことを見て、踏み込まなくては仲良くはなれない。明日葉はそのことを、今までの人生で学んでいた。

(どうしてって、そう思ってるのはボクの方だ。だったら……ボクが聞かないと)

 緊張で跳ねる心臓を抑え込んで、明日葉は踏み出すために息を吸った。

「その……リーリャさん」

「は、はい、なんでしょうか!?」

「……疲れてたり、するの?」

「……え?」

「毎日学園だけじゃなくて、家でもそうやって頑張って……疲れたりしないのかなって」

 もしかしたら、これは失礼なことかもしれない。そう思いながらも、明日葉は相手を真っ直ぐに見た。

 蒼色の瞳が見開かれている理由を推し量ることはできない。けれど、リーリャが確かにこちらの言葉を聞いて、なにかを思っていることは分かる。

「ボク、なんでもするよ。そういう、約束だから。だから……遠慮とか、取り繕ったりとか、そういうのは気にしないで……ボクになんでも、言って欲しいなって」

「……百合園さん」

「きゅ、急に言われても、困るよね! ごめんね! でも……でも、ボクだったらきっと……みんなに期待されるのは嫌じゃないけど、たぶん……ずっとだと、ちょっと疲れる……から」

 どう言えば彼女が喜んでくれるのかは分からない。それでも明日葉は、相手のことを知りたいという自分の気持ちが伝わるように、言葉を探しながら話しかける。

「リーリャさんがどう考えてるのかとか、正直全然分からないよ。話したことも全然ないし。でも、せっかくこうして一緒にいるなら、いて欲しいって言ってくれるなら……聞きたいなって、思うんだ」

「あ……」

 リーリャは明日葉の言葉に少しだけ俯いて、沈黙した。

 言うべきだと思ったことを言い終わった明日葉は、相手の返答を急かすことなく、ただ待った。

 やがて顔を上げた金色の少女は、どこか不安そうに眉尻を下げて、

「……私は、お父様とお母様の……そして、使用人たちや先生方の期待に応えることを、苦痛に感じたことはありません」

「……うん」

「でも……そうですね。私も……少しだけ、疲れるときはあります」

「そうだよね、ボクのお布団で寝てたくらいだし……よっぽど疲れてたんだね」

「っ、こ、これはその、ちがっ……」

「え、違ったの? てっきり、疲れて寝ちゃったんだと思ってたんだけど……」

「あ、ううぅ」

 しまった、という顔で、リーリャは頬を真っ赤に染める。学園で見せる落ち着いた雰囲気はすっかり失せて、わたわたと忙しく表情を変化させるリーリャ。

 やがて金髪の少女は観念したように溜め息を吐いて、おずおずと言葉を紡ぐ。

「……ほ、本当は今日、百合園さんに早く会いたくて、お稽古事を頑張って早く終わらせたんです」

「あ……そ、そうだったんだ。ごめんね、えと、荷物とかまとめてて……」

「はい、それでその、お部屋でお帰りを待ってたんですけど……ベッドから、ゆ、百合園さん、の、に、においが、してっ……」

 自分で説明していてよほど恥ずかしいのだろう。リーリャの顔はもはや茹でられたかのように真っ赤だ。

「それで、つ、つい……百合園さんのベッドで、そ、そのまま……」

「匂いって……リーリャさん、ボクの……その、匂いが好きなの?」

「…………………………はい」

 隠すことを諦めたようで、リーリャはたっぷり沈黙したものの、最後には素直に頷いた。

 金色の髪をベッドシーツにぶちまけるようにして、お嬢様はうなだれる。

 そんなリーリャを見て、明日葉は安心したように表情を緩めた。

「よかった」

「へ……? よかった……?」

「あ、ううん。その……どうしてって思うことばっかりだったから。ここに来て、いろいろリーリャさんにお願いをされて……それはボクがそうして欲しいって言ったからだけど……どうしてなのかなって思っていたから。理由が分かってちょっと安心したよ」

 屈託のない笑顔は、嘘のないしるしだ。

「そりゃ、その、ね? 匂いを嗅がれるのはちょっと、かなり恥ずかしいけど……でも理由が分かったから、それでいいよ。その……リーリャさんみたいに可愛い子に好きって言われるなら、悪くないし……」

「っ……あ、か、かわいい、って……」

「え、そりゃ可愛いし……だってこんなにお人形さんみたいだし! もうね、あっちこっち小さくって、抱きしめたくなる可愛さっていうのかな……でも、学園だとぴしっとしてるからそういう雰囲気っていうか、隙は全然なくて……でも今のリーリャさんは、なんていうのかな……恥ずかしがってたり慌ててたりしてて……ボクと同じ女の子なんだなぁって感じがして……可愛いなって思うよ?」

「は、はううぅ……や、やめてください、その、は、はずかしい、ですっ……」

 可愛いという言葉は、リーリャが物心ついた頃から何度も聞いてきた賛辞だ。

 彼女自身も、過信ではなく純粋な事実として、『自分は可愛く見られている』という自覚はあった。

 そしてそのために、服やアクセサリーも自らの人形じみた可愛らしさを助長する、言ってみれば『似合う』ものを選んできた。

 それは母親譲りの容姿とセンス、そして世渡りの一部であり、事実、外見で得をすることなど何度もあった。それと同じように、無遠慮に舐めるような視線を浴びせられることも、何度もあった。

 驕りではなく、ただのこれまでの周囲の対応から、神城リーリャは自分が可愛い生き物だということを自覚して、自分もそのように振る舞ってきた。

(でもそれは……私の外面の話でっ……!)

 親から受け継ぎ、周囲に望まれ、自らが磨き上げて築いた、お嬢様としての神城リーリャ。

 常に余裕を持って優雅に微笑んでいるお嬢様としての自分ではなく、ただの少女としての自分を褒められて、リーリャは今までに感じたことのない鼓動の乱れを感じていた。

(正面から、ありのままの自分を褒められるのがこんなにドキドキするなんて……知りませんっ……!!)

 ぷしゅうぅ、と湯気が出てしまいそうなほどに顔を真っ赤にするリーリャ。

 白い肌に羞恥の鮮やかな朱色が差したクラスメイトを見て、明日葉もやや頬を染めながら言う。

「えっと……そんなに好きなら、その、直接嗅いでみる……?」

「あ、えっ……い、いいん、です、か……?」

「う、うん、その……リーリャさんがそうしたいなら。あ、でも今はお風呂入ってないし、掃除とかして汚れてるから、あとでなら……」

 昨日はめまぐるしく時間が過ぎてしまったので、明日葉は入浴をし損ねていた。汗はそれほどかいてはいないし着替えもしたものの、やはり引っ越しの準備で多少、埃を被っている。

「だ、だめです、い、今がいい、です……!」

「うぇ!? い、今すぐ!?」

「な、なんでもするって、い、言ってくれました、よね……?」

「あ、うー……」

 自分が言い出したことを蒸し返されて、明日葉は言葉に詰まる。

 なにより、相手の蒼色の目が不安そうに揺れていることが、明日葉の心を掴んで離さない。

(寂しそうで、怖がっているようで……たぶんリーリャさんにとって……初めての我が儘だったり、するのかな……)

 目の前の相手が我が儘を言うような人ではないことを、明日葉は知っている。

 大人ですら疑いもせずに仕えるほど、彼女は完璧に日々をこなし、お嬢様としての自分を確立している。周囲の期待を裏切らずに応え続けて生きてきたのだということは、想像に難くない。

 そんな彼女にとって、父親に頼み込んで除籍を止めたことは、どれだけの覚悟が必要なことだったのか。

 そして今、自分にこうして欲しいと我が儘を言うことが、どれほど勇気が必要なのか。

(この子には今、ボクしか……こんなふうに、本当に自分がしたいことを言える人がいないのかな……)

 そんなことを考えた瞬間、明日葉は自分の胸が強く脈打つのを感じた。

 この不安げに揺れる蒼い瞳を、美しいだけではない弱さを、自分にだけ向けてくれるのだという事実が、明日葉の心を強く震わせる。

 自分だけが、彼女の隠れた一面を知っている。

 人形のように美しく、麗しく、気高い少女が密やかに、花を育てるように秘めてきた、想いを。    

 自分が見捨ててしまったら、この弱さはどこにもいけなくなってしまうのではないだろうか。

 自分が受け止めなくては、彼女は水を失った花のように枯れてしまうのではないだろうか。

「……おいで、リーリャ」

 明日葉は自然と腕を広げ、リーリャが懐へとやってくるのを許した。

「ゆ、百合園、さんっ……」

「……いいよ。リーリャの、好きにしていいから……」

 さん付けを外したのは、他人行儀ではないという意思表示だ。

「あ……は、はい……」

 リーリャは花の香りに誘われた蝶のように、ふらふらと明日葉に近づき、胸の膨らみに顔を埋める。

「ん……」

「っ、は、ぁ……」

 くすぐったく、むず痒い感触に、明日葉は身震いした。

 昨日よりもずっと濃くなっているであろう自分の体臭を、今度は自ら相手に嗅がせるという行為に、明日葉は顔から火が出るような心地をぐっと堪える。

「ん、ぁ……すぅぅ、百合園さん、やっぱり、いい匂いです……」

「っ、は、恥ずかしいから、あんまり言わないでっ……」

 リーリャは満足げな様子で、まるで猫のようにすりすりと頭を擦りつける。嗅覚に触れてくる明日葉の香りは甘く、昨日よりも強く、深く吸い込む度に脳の奥までを痺れさせてくるようで。

 すれ違うのではなく、我が儘を通したのでもなく、望みを許してもらったリーリャは、もはや遠慮を完全に失っていた。

「すううう……んん……はぁぁ……」

「んっ、あっ……リーリャ、くすぐったいっ、よぉっ……」

 頭の上から恥じ入った声が聞こえてきて、顔を見たい衝動にも駆られるが、リーリャは匂いに集中する。嗅ぐというよりは貪るように、午前中の寂しさを埋めてしまう勢いで、金髪の少女は憧れの相手の香りを自らの中に取り込んでいく。

 腕をしっかりと腰に回し、逃げられなくしての吸引に、明日葉は身じろぎさえできずに羞恥心に悶える。

「ん、ふぁっ……だ、めぇ……そんなに、いっぱい嗅がれたらぁ、息がぁ……」

 密着することで相手の吐息が服越しに熱を与えてきて、明日葉は胸が痺れるような感覚を得た。

「ぷはっ……ん、せっかくですから、いろんなところ、嗅がせてください……」

「ふえっ、せっかくって、あ、ひゃぁん!?」

「ん、ん……すうぅ……」

「んや、あっ、ひっ……」

 衣擦れと荒い呼吸の音、そして甘ったるい羞恥の声が寝室に響く。

 ゆっくりと明日葉の体勢が崩れ、抱きしめるのではなく押し倒されるような格好になってしまう。

「ん、ふうぅっ……」

「あ、ひゃぁぁっ……」

 胸元から首筋にいき、うっすらと浮いた汗を鼻先で拭かれるようにして、明日葉は己の体臭を吸引される。

 胸に顔を埋められるのとはまた違ったくすぐったさに声をあげたのもつかの間。休む暇もなく、リーリャの顔が明日葉の顔横へとやってきて、

「ん、ふぅ……」

「ひゃっ、めっ、耳はっ、だめぇっ……」

 匂いの濃い耳裏を嗅がれるということは、そこにたっぷりと吐息が吹きかけられるということだ。

 羞恥に染まり真っ赤になった耳に、荒く熱い、乱れた呼吸の温度が触れる。

「やっ、なに、これぇ、ぞくぞく、しっ、て……こんなの、しらなっ……」

「はぁぁ、百合園さん……良い匂い……んんっ……」

「や、あっ、だから耳はっ、んぁっ、んんんっ!?」

「ん……じゃあ、こっちにします……」

 ぎゅう、とリーリャがその小さな身体で明日葉に抱きついた。

 今度は耳ではなく頭の匂いを堪能しているらしく、頭上からふんふんと鼻を鳴らす音が聞こえてくる。

(耳じゃなくなったけど、これはこれでっ……!)

 一日放置してしまった頭皮の香りを嗅がれるのはもちろん恥ずかしいが、それ以前に体勢が問題だった。

 正面から頭を嗅がれるということは、嗅がれている側の顔は相手の胸に近くなるということ。

 まして、これだけの至近距離である。当然のように、相手の匂いが感じられるほどに密着していて、

(リーリャの胸、やわらかいっ……!)

 自分よりも慎ましやかな大きさとはいえ、他人の胸に顔を埋める機会などそうあることではない。

(ていうか、リーリャだって、凄く良い匂いするよっ……むしろ絶対ボクより良い匂いだよっ……!!)

 自分のものではない香りが、強く嗅覚を刺激してくる。

 今まで嗅いだことがないような甘さと、ささやかに感じる柔らかさに、相手の存在を強く感じてしまう。

「んう、あ……」

「ん、くんくん……はぁぁ、ん、ふ……」

 リーリャが深く息を吸い込み身じろぎする度に、熱く火照った小さな身体が、乱れた鼓動を奏でる柔らかな胸が押しつけられてくる。

 いつしか明日葉も酔っ払ったように顔を赤くして、リーリャの香りに集中していた。

「ん、すぅぅ……」

「はぁぁ、ん、ふっ……」

 金色と黒色。ふたりの少女は真っ白いシーツの上で、絡み合うようにしてお互いの身体に腕を回す。

 少女たちは時間の感覚を忘れ、相手の匂いと感触を自らに刻みつけるように貪った。

(百合園さん良い匂い、百合園さんカワイイ、百合園さんあったかいっ……!)

(やああっ、なんで女の子同士なのに、こんなにドキドキするのっ……と、とまんないよぉっ……!?)

 未知の感触と香り、そして感情に翻弄され、ふたりはベッドシーツに深くシワを作り、絡み合う。

「っ、り、りーりゃぁっ……」

「ん、ぁ……百合園さ、ん、もぞもぞされたら、うまく、かげない、ですっ……」

「あ、ご、ごめっ……で、でも、こんなの、はじめてでっ……!」

「……私だって、はじめてですよ?」

「っ……!」

「こんなふうに、抱きしめたいって、私の側にいて欲しいって……我慢しようって思っていたのに……なんでもするなんて言われて……我慢、できなくなりました……」

 至近距離で見る蒼色の瞳に、呼吸が止まるほど吸い寄せられる。

挿絵2

 お互いの息がかかり、体温を感じ、鼓動さえも聞こえてくる距離。

(す、ごい……リーリャの、胸も……どくんどくん、してるっ……!)

 自分と同じように、相手も胸を高鳴らせている。

 リーリャは真っ白な肌を首まで朱色に染めて、恥じらった様子を見せながらも可愛らしくはにかんだ。

 クラスメイトに見せる余裕のある静かな笑みではない、頬を染めた魅力的な微笑みに、心臓はさらにうるさく音を奏でた。

「ん……こんなに、ドキドキ、するの……はじめて、です……」

「そ、れは……ボクも、だけど……」

「女の子同士なのに……同じ、女の子のはずなのに……百合園さんは、私と、こんなにも違っていて……憧れて……いい匂いで……」

 柔らかな愛らしさと、そこから覗く、ぞくりとするほどの執着心。

 そんな目を向けられるのも、こんなに可愛いと思える相手も、初めて見た。

(もしもボクが、応えたら……)

 今、手を伸ばしてリーリャに触れたら。

 彼女は果たして、どんな反応をするのだろう。

 背筋を撫でるように湧いてきた、欲望とも、好奇心ともつかない思考に、明日葉は動かされ──

「っ……!!」

 部屋に響いたノックの音で、反射的に手を引っ込めた。

「ん、ぁ……百合園さん、失礼しますね」

 リーリャがするりと明日葉から離れ、お嬢様の顔に戻る。

 金色の少女はそのまま部屋の入り口へと向かい、扉を薄く開けて、

「どうかしましたか?」

「あ……お嬢様、こちらにいらっしゃったのですね。お食事の準備ができたので、百合園様を呼びに参りました」

「分かりました。百合園さんもここにいますが、今は着替え中ですから、そのまま下がって構いません。あとでふたりで食卓に参ります」

「承知致しました、お嬢様。お待ちしております」

 丁寧な礼をして、給仕の女性はその場から立ち去る。

 扉を閉め、明日葉へと振り向いたリーリャの顔はもう、いつも通り。

 使用人やクラスメイトたちに見せる、完璧で柔らかな微笑みをたたえた生粋のお嬢様が、そこにいた。

「百合園さん。今日はお疲れでしょうから、お食事をしたらお風呂に入って、ゆっくり休んでくださいね」

「あ……う、うん、あ、ありがと……」

「はい。それでは、先に行っています」

 柔和な笑みを崩すことなく、軽く衣服を整え、丁寧にお辞儀をしてから、リーリャは部屋から出ていく。

 残された明日葉は、やや乱れた己の私服を直しながら、

「……っ、まだ、どきどきしてる……こんなの、ヘンだよぉっ……」

 胸の高鳴りと感情を処理できず、赤面したままで呻いた。

 明日葉が平静を装って食卓につけるようになるまでには、かなりの時間を要した。

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