百合園明日葉にとって、その日は慌ただしい一日になった。
いろいろなことがありすぎて疲れ切っていた明日葉は、部屋でひとりにされるなりベッドに倒れ込んで、泥のように眠った。
お屋敷のベッドは今まで眠った中で一番ふかふかで、お陰で明日葉はお昼前まで惰眠を貪ってしまった。
(休日で良かったよ、ほんとに……)
平日ならとっくに遅刻しているところだ。その場合は恐らく、使用人の誰かが起こしに来たのだろうが。
目を覚ました明日葉は父親に連絡して、同級生に助けてもらったという旨を話した。父親は電話口で何度も明日葉に謝り、神城グループ傘下の会社で働き始めることになったと報告してくれた。
そうして安堵したところで部屋にやたらと豪華な昼食が運ばれてきて、明日葉は使用人たちにペコペコと頭を下げて食事をいただいた。
「あ、あの、リーリャさんは、今日は……?」
「お嬢様は習い事や、旦那様や奥様のお知り合いとの会合などで忙しいので、お戻りは夜になるかと」
「それは……大変なんですね」
「いえ、お嬢様は立派にお務めを果たされていますよ」
仕えられて幸せだ、という顔をする給仕に、明日葉は疑問を覚えた。
(同級生だけど、まだ子供のリーリャさんがそこまでしてるなんて……)
彼女は学園の中だけでなく、家の中でも完璧なお嬢様として、周囲の期待を一身に受けているようだ。
安心したような使用人たちの表情は、自分たちの『お嬢様』を少しも疑ってはいないもので、
(……周りの大人の人たちまで、しっかり頼むよって、そう言い続けてきたのだとしたら……リーリャさんの甘えや疲れはどこに行くんだろう)
疑問に思いながらも遅めの食事を綺麗に片付けて、明日葉は引っ越し準備の掃除のために寮へと戻ることにした。
リーリャの屋敷は学園とそう離れておらず、歩いても十分ほどの距離だ。
お抱えの運転手だという使用人が送ろうとするのを、運動ついでだと言って断り、明日葉は昨日からの怒濤の展開を頭の中で整理しながら、やや遠回りで寮に戻る。昔から身体を動かしていた明日葉にとって、悩み事ができたときに近所を走り込むのは癖のようなものだった。
さすがに情報量が多すぎるために学園に着くまでに明確な答えを見つけることはできなかったものの、多少は落ち着きを取り戻すことはできた。
「お風呂入ってないし、スカートで掃除はしづらいから服くらいは着替えたいな」
明日葉の私服はカジュアルで制服よりも動きやすいものが多い。
今日は掃除ということもあり、デニムパンツと、黒を基調としたシャツでシンプルにまとめた。動きやすさ重視で飾り気は少ないものの、すらりとしてスタイルのいい明日葉が着るとどこか決まっている印象だ。
荷物をまとめ、部屋を片付けた明日葉は寮母や寮生たちに簡単な挨拶をして回り、暗くなる前にリーリャの屋敷へと戻った。
「ただいま……で、いいのかな、これ」
まだ慣れていない高級な屋敷に恐縮しつつ、明日葉は自室として与えられた部屋に戻る。寮で挨拶回りをしているうちに荷物は運ばれていたらしく、部屋の隅にいくらかの段ボール箱が積み上がっていた。
「荷物を出すのは……さすがに明日でいいかなぁ、明日も日曜でお休みだし……」
昨日からのイベント続きと、荷造りや挨拶の疲れを感じて、明日葉は結んでいたポニーテールをほどき、ベッドに身を投げ出す。
夕食に呼ばれるまで、少し眠ってしまおうか。ふかふかのベッドに身を沈めることでやってきた誘惑に身を任せようとして──
「──すぅ」
「……すぅ?」
自分以外の寝息があることに、気が付いた。
落ちかけた瞼を開いて視線を動かすと、すぐ側に美少女がいた。
「っ……!!」
驚いて出てしまいそうになった悲鳴を、明日葉は慌てて飲み込む。
すうすうと規則正しく寝息を刻むのは、金色のクラスメイト。
(リーリャさん!? 夜まで帰らないんじゃ……!?)
だいぶ日は落ちているが、時刻としては夕方だ。使用人から聞いていた帰宅の予定とはズレている。
おまけに、なぜ自分の部屋にいるのだろうか。疑問に思ったものの、それ以上に、唐突に視界に現われたリーリャの寝顔に、明日葉は完全に魅入ってしまう。
(うっわ、寝てたら本当にお人形に見える……!)
金色の髪を白いシーツに敷き詰めるようにして、リーリャは横たわっている。
至近距離で見る相手の顔は、同性だというのに胸が高鳴るほどの美しさだった。
瞳を閉じていても長いと充分に分かる睫毛に、形のいい眉。
小さな唇はつやつやと柔らかそうで、肌はシミひとつ見当たらないほどの純白。
普段着らしいフリルたっぷりの洋服は、彼女の可愛らしさを存分に引き立てていた。
(不思議の国のアリスみたいだなぁ……)
百合園明日葉は、可愛いものが好きである。
幼い頃から背が高く、面倒見の良かった彼女は、可愛いと評価されるよりも格好いいと評価されることが多かった。
そうして、いつしか彼女は可愛いものに対する憧れを強く持つようになっていた。小物を動物系、特に猫のもので揃えていたりするのは、せめて持ち物くらいは可愛くしたいという彼女なりの乙女心だ。
そんな明日葉にとって神城リーリャという人物は、憧れの容姿をしている。
お伽噺のヒロインのように煌びやかな金色の髪、あらゆるパーツが小さな体躯。
白磁色のなめらかな肌や蒼色の瞳は、見ているだけで吸い込まれそうなほどの美しさだ。
「……少し、だけ」
そっと頬に触れてみれば、指が滑るほどに肌のきめは細かく、降ったばかりの雪に足跡をつけるような背徳感すら湧いてきてしまう。
(見た目だけじゃなく質感までお姫様だ……凄い……)
相手が眠っているのをいいことに、明日葉は自分の理想の可愛らしさを備えたクラスメイトの少女の肌をなぞり、鼻の先から睫毛の一本までじっくりと観察する。
普段は教室で笑みを絶やすことなく佇んでいるリーリャの寝顔は新鮮で、
「なんか、ど、どきどきする……リーリャさん、ほんとカワイイ……うう、天使かな……?」
「ん、んん……ゆりぞの、さん……?」
「ひえっ……!?」
閉じられていた蒼の瞳が、ゆらりと花咲くように開かれる。
リーリャはぼんやりとした表情で、至近距離まで迫っていた明日葉の顔を眺め──
「ひゃぁぁっ!?」
顔を真っ赤にして、飛び上がった。
「も、ももも、申し訳ありません! わ、私、百合園さんのベッドでなんてはしたない……!」
「そそそ、そんなこっちこそごめんね! 気持ち良さそうに眠ってるからつい、じっと見ちゃって……!」
ふたりはお互いにベッドに正座し、ぺこぺこと頭を下げて相手に謝罪する。
一通りベッドシーツに額を埋めた明日葉とリーリャの間に、沈黙という名の気まずい空気が流れた。
「……あ、あの」
静寂を破ったのは、明日葉の方からだった。
「ええと、リーリャさん、今日は夜まで帰らないって聞いてたんだけど……」
「きょ、今日はたまたま、お稽古事が早く終わりましたから……」
「へ、へええ、そうなんだ! やっぱり凄いね、毎日頑張ってるんだ!?」
「い、いえ、私は神城の娘として、当然のことをしてるだけで……!」
お互いに完全に緊張してしまっている状況に、明日葉はまずいものを感じた。
(……これはたぶん、良くない流れだ)
これまで挨拶を交わすだけの間柄だったふたりが、急に接近した。お互いに知らないことだらけなのは当たり前で、だとしたらお互いのことはこれから知っていくべきことのはずだ。
しかし今、自分たちは相手に遠慮して、ただ当たり障りのない対応をしてしまっている。
たとえ同じ場所にいても、相手のことを見て、踏み込まなくては仲良くはなれない。明日葉はそのことを、今までの人生で学んでいた。
(どうしてって、そう思ってるのはボクの方だ。だったら……ボクが聞かないと)
緊張で跳ねる心臓を抑え込んで、明日葉は踏み出すために息を吸った。
「その……リーリャさん」
「は、はい、なんでしょうか!?」
「……疲れてたり、するの?」
「……え?」
「毎日学園だけじゃなくて、家でもそうやって頑張って……疲れたりしないのかなって」
もしかしたら、これは失礼なことかもしれない。そう思いながらも、明日葉は相手を真っ直ぐに見た。
蒼色の瞳が見開かれている理由を推し量ることはできない。けれど、リーリャが確かにこちらの言葉を聞いて、なにかを思っていることは分かる。
「ボク、なんでもするよ。そういう、約束だから。だから……遠慮とか、取り繕ったりとか、そういうのは気にしないで……ボクになんでも、言って欲しいなって」
「……百合園さん」
「きゅ、急に言われても、困るよね! ごめんね! でも……でも、ボクだったらきっと……みんなに期待されるのは嫌じゃないけど、たぶん……ずっとだと、ちょっと疲れる……から」
どう言えば彼女が喜んでくれるのかは分からない。それでも明日葉は、相手のことを知りたいという自分の気持ちが伝わるように、言葉を探しながら話しかける。
「リーリャさんがどう考えてるのかとか、正直全然分からないよ。話したことも全然ないし。でも、せっかくこうして一緒にいるなら、いて欲しいって言ってくれるなら……聞きたいなって、思うんだ」
「あ……」
リーリャは明日葉の言葉に少しだけ俯いて、沈黙した。
言うべきだと思ったことを言い終わった明日葉は、相手の返答を急かすことなく、ただ待った。
やがて顔を上げた金色の少女は、どこか不安そうに眉尻を下げて、
「……私は、お父様とお母様の……そして、使用人たちや先生方の期待に応えることを、苦痛に感じたことはありません」
「……うん」
「でも……そうですね。私も……少しだけ、疲れるときはあります」
「そうだよね、ボクのお布団で寝てたくらいだし……よっぽど疲れてたんだね」
「っ、こ、これはその、ちがっ……」
「え、違ったの? てっきり、疲れて寝ちゃったんだと思ってたんだけど……」
「あ、ううぅ」
しまった、という顔で、リーリャは頬を真っ赤に染める。学園で見せる落ち着いた雰囲気はすっかり失せて、わたわたと忙しく表情を変化させるリーリャ。
やがて金髪の少女は観念したように溜め息を吐いて、おずおずと言葉を紡ぐ。
「……ほ、本当は今日、百合園さんに早く会いたくて、お稽古事を頑張って早く終わらせたんです」
「あ……そ、そうだったんだ。ごめんね、えと、荷物とかまとめてて……」
「はい、それでその、お部屋でお帰りを待ってたんですけど……ベッドから、ゆ、百合園さん、の、に、においが、してっ……」
自分で説明していてよほど恥ずかしいのだろう。リーリャの顔はもはや茹でられたかのように真っ赤だ。
「それで、つ、つい……百合園さんのベッドで、そ、そのまま……」
「匂いって……リーリャさん、ボクの……その、匂いが好きなの?」
「…………………………はい」
隠すことを諦めたようで、リーリャはたっぷり沈黙したものの、最後には素直に頷いた。
金色の髪をベッドシーツにぶちまけるようにして、お嬢様はうなだれる。
そんなリーリャを見て、明日葉は安心したように表情を緩めた。
「よかった」
「へ……? よかった……?」
「あ、ううん。その……どうしてって思うことばっかりだったから。ここに来て、いろいろリーリャさんにお願いをされて……それはボクがそうして欲しいって言ったからだけど……どうしてなのかなって思っていたから。理由が分かってちょっと安心したよ」
屈託のない笑顔は、嘘のないしるしだ。
「そりゃ、その、ね? 匂いを嗅がれるのはちょっと、かなり恥ずかしいけど……でも理由が分かったから、それでいいよ。その……リーリャさんみたいに可愛い子に好きって言われるなら、悪くないし……」
「っ……あ、か、かわいい、って……」
「え、そりゃ可愛いし……だってこんなにお人形さんみたいだし! もうね、あっちこっち小さくって、抱きしめたくなる可愛さっていうのかな……でも、学園だとぴしっとしてるからそういう雰囲気っていうか、隙は全然なくて……でも今のリーリャさんは、なんていうのかな……恥ずかしがってたり慌ててたりしてて……ボクと同じ女の子なんだなぁって感じがして……可愛いなって思うよ?」
「は、はううぅ……や、やめてください、その、は、はずかしい、ですっ……」
可愛いという言葉は、リーリャが物心ついた頃から何度も聞いてきた賛辞だ。
彼女自身も、過信ではなく純粋な事実として、『自分は可愛く見られている』という自覚はあった。
そしてそのために、服やアクセサリーも自らの人形じみた可愛らしさを助長する、言ってみれば『似合う』ものを選んできた。
それは母親譲りの容姿とセンス、そして世渡りの一部であり、事実、外見で得をすることなど何度もあった。それと同じように、無遠慮に舐めるような視線を浴びせられることも、何度もあった。
驕りではなく、ただのこれまでの周囲の対応から、神城リーリャは自分が可愛い生き物だということを自覚して、自分もそのように振る舞ってきた。
(でもそれは……私の外面の話でっ……!)
親から受け継ぎ、周囲に望まれ、自らが磨き上げて築いた、お嬢様としての神城リーリャ。
常に余裕を持って優雅に微笑んでいるお嬢様としての自分ではなく、ただの少女としての自分を褒められて、リーリャは今までに感じたことのない鼓動の乱れを感じていた。
(正面から、ありのままの自分を褒められるのがこんなにドキドキするなんて……知りませんっ……!!)
ぷしゅうぅ、と湯気が出てしまいそうなほどに顔を真っ赤にするリーリャ。
白い肌に羞恥の鮮やかな朱色が差したクラスメイトを見て、明日葉もやや頬を染めながら言う。
「えっと……そんなに好きなら、その、直接嗅いでみる……?」
「あ、えっ……い、いいん、です、か……?」
「う、うん、その……リーリャさんがそうしたいなら。あ、でも今はお風呂入ってないし、掃除とかして汚れてるから、あとでなら……」
昨日はめまぐるしく時間が過ぎてしまったので、明日葉は入浴をし損ねていた。汗はそれほどかいてはいないし着替えもしたものの、やはり引っ越しの準備で多少、埃を被っている。
「だ、だめです、い、今がいい、です……!」
「うぇ!? い、今すぐ!?」
「な、なんでもするって、い、言ってくれました、よね……?」
「あ、うー……」
自分が言い出したことを蒸し返されて、明日葉は言葉に詰まる。
なにより、相手の蒼色の目が不安そうに揺れていることが、明日葉の心を掴んで離さない。
(寂しそうで、怖がっているようで……たぶんリーリャさんにとって……初めての我が儘だったり、するのかな……)
目の前の相手が我が儘を言うような人ではないことを、明日葉は知っている。
大人ですら疑いもせずに仕えるほど、彼女は完璧に日々をこなし、お嬢様としての自分を確立している。周囲の期待を裏切らずに応え続けて生きてきたのだということは、想像に難くない。
そんな彼女にとって、父親に頼み込んで除籍を止めたことは、どれだけの覚悟が必要なことだったのか。
そして今、自分にこうして欲しいと我が儘を言うことが、どれほど勇気が必要なのか。
(この子には今、ボクしか……こんなふうに、本当に自分がしたいことを言える人がいないのかな……)
そんなことを考えた瞬間、明日葉は自分の胸が強く脈打つのを感じた。
この不安げに揺れる蒼い瞳を、美しいだけではない弱さを、自分にだけ向けてくれるのだという事実が、明日葉の心を強く震わせる。
自分だけが、彼女の隠れた一面を知っている。
人形のように美しく、麗しく、気高い少女が密やかに、花を育てるように秘めてきた、想いを。
自分が見捨ててしまったら、この弱さはどこにもいけなくなってしまうのではないだろうか。
自分が受け止めなくては、彼女は水を失った花のように枯れてしまうのではないだろうか。
「……おいで、リーリャ」
明日葉は自然と腕を広げ、リーリャが懐へとやってくるのを許した。